ゴーンは「自ら語る組織」をどうつくったか
『プレジデント』 2003年7月14日号、90-93ページ
ゴーンは「自ら語る組織」をどうつくったか
「どんな会社でも、最大の能力は部門と部門の相互作用の中に秘められている」
カルロス・ゴーンは自らの言葉を具現化すべく、部門を超えた「対話
組織」を日産社内に創成し、数千もの提言をさせた。
なぜゴーンは社員に「徹底対話」を求めるのか。その真意に迫る。
京都大学教授 鎌田浩毅=文
text by Hiroki Kamata
わずか二ヶ月で二〇〇〇件の提言
日産は劇的なV字回復を遂げた。カルロス・ゴーン社長兼CEO(四九歳)の仕かけた数多くのプランが成功し、奇跡的な業績回復を実現した。二〇〇一年三月には、たった一年で巨額の赤字を黒字転換させ、以後も過去最高益を更新しつづけている。危機に瀕した日産の再生に、最も威力を発揮したシステムがある。ゴーンが提案したクロス・ファンクショナル・チーム(CFT)である。
CFTは、組織間の情報伝達を円滑にするために作られた横断的なチームである。ここには「対話力」の原点がある。その秘密を探るため、私は日産本社を訪れ、当時CFTのパイロット(まとめ役)を務め、現在バリューアップ推進支援チームに関わっている嘉悦朗[ルビ:かえつあきら](四七歳)を取材した。
CFTとは、一言でいえば、「組織間の対話力を最大限に引き上げるシステム」である。役員と中間管理職、中間管理職と社員の意志疎通を、きわめて実質的なものにする。日本では、夕方五時以降の酒席で、結果として重要な取り決めがされることが多い。ゴーンは、このたぐいの悪習を徹底的に排し、ビジネスアワーの中で、本質的な討論と意志決定を行なう方法を導入し、いたるところで縦割り組織の弊害が出ていた日産に、健全な破壊を持ち込んだのである。
CFTの第一の目的は、起死回生への数値目標を示す日産リバイバルプラン(NRP)を策定することにあった。製造物流・研究開発・財務コストなどの改善項目ごとに、九チーム(後に一〇チーム)のCFTが作られた。各チームは一〇人ほどで構成され、異なる部門から一人ずつ選りすぐりの人間が集められた。
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CFTの中では、個人の発案が最大限に取り上げられる。たとえば、エンジン部門や人事部門など、自分の所属する組織にしばられて自由に発言できない状態を、根本的に改善したのだ。CFT創成からNRP発表までのわずか二ヶ月という短い間に、旧来の部門を超えた激しい議論が交わされた。
CFTの日常とは具体的にはとはこのようなものだ。一週間のうち三日間、朝八時半から深夜まで研修所に缶詰になり、提起された問題に対して、一対一または一対二で徹底的に議論をつくす。残りの八人は、討論を見ながら問題点を擬似体験していく。問われている問題が決して他人ごとではないという「気づき」がしだいに生まれ、全員が課題を掌握できる。
ある瞬間から「議論が透明になり、日産の悪い部分が沈殿し、良い部分は上澄みとして」見えてくる。この悪い部分に徹底的に焦点を当てれば、根本的な改善策はおのずと出てくる。「討論のデータベースをメンバー全員が共有することで、再生へ向けての気持ちが一丸となります。まさに切磋琢磨の議論づめの二ヶ月でした」と、嘉悦は当時を回想する。
日産全社にわたる過去の問題点がすべて洗い出された結果、二〇〇〇件を超える提言が出された。これらは、CFTを統括するパイロットと、ゴーンを含む全役員の間で、何時間にもわたり議論され、最終的にゴーンが再建計画を決定した。
「理系的処理」+「対話」で人を動かす
一九九九年十月一八日、NRPが満を持して発表された。第三三回東京モーターショウ開幕のわずか五日前という抜群のタイミングだ。当然、モーターショウはNRPの話題でもちきりとなった。ゴーンの宣伝戦略の勝利であった。
ゴーンが導入したCFTという対話システムは、一見、どこの企業でも行っているように見える。しかし、私は本質的に異なるものを、取材で感じとった。その秘密は、人間に対するゴーン一流の哲学にあった。
ゴーンは、こんな考え方を持っている。「人はすでに持っている思い込みから、容易には抜けられないものだ」。社員の意識改革が日産の再生の最重要課題とされた。もちろんゴーンは、ブラジルと北米で会社を再建した経験から、その難しさを最も熟知している。
これまでのゴーンの施策を検証すると、常に課題を簡単な要素に分けて、問題点の解決にあたってきたことがわかる。まず定量的な目標をはっきり示し、達成時期を設定する。次に具体的な方法を決定し、即座に実行に移す。ゴーンは、すべてをきわめて理系的な頭で処理する。しかし、特徴的なのは行動にあたっては、個人の対話を最も重んずることだ。ゴーンみずからが動いて、人の説得にまわるのである。
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ゴーンの導入したCFTには、二十世紀心理学が達成した方法論が、取り入れられていると思われる。議論の進行につれて「気づき」を誘発するという手法は、実はオープン・カウンセリングの技法と酷似している。人ごとだと思って聴いていた話が、自分の問題であると気づいたとき、人は初めて、心底から課題に取り組もうとする。このときに、心理学で言う「認識反射」が生じる。「ああそうだ、まさに私の問題だ」という認識が、心の中で反射的に起きるのだ。嘉悦氏CFT体験には、この認識反射があふれていた。
CFTのもう一つの大きな特徴は、個人が自分の言葉で語る、というコンセプトである。部門の利益代表として発言するのではなく、全社にわたる改善策を、一個人として提案する。ここに、ゴーンの健全な個人主義的な発想が現れている。
ルネッサンスに秘められた真意とは
ゴーンは、日産再生プロジェクトが一段落ついた二〇〇一年一〇月に、『ルネッサンス 再生への挑戦』(ダイヤモンド社)を著している。彼が自著の題名をルネッサンスと名づけたのには、深いわけがある。
イタリア史研究家の塩野七生は、ルネッサンスをこう定義している。「ルネッサンスとは、自分の目で見て観察したことを、自分の言葉で語ること」(新潮45、二〇〇一年一二月号)。ルネッサンスとは、四〇〇年前の西欧人が、キリスト教の呪縛を逃れて、一〇〇〇年の眠りの後に「自分の言葉で語り」始めた時代である。ゴーンが日産にもたらしたのは、自分の言葉で語る、という対話の文化である。一人ひとりが、自分の部署の問題点を的確に把握し、改善方法を仲間に伝えてゆくこと。その積み重ねが、CFTの核となったのである。ルネッサンスという言葉には、対話力に関するゴーンのメッセージが隠されていた。
西洋では、ルネッサンスとは、古典の復興を意味する。ギリシャ時代には、ソクラテスという対話の名人がいた。彼はあらゆることに対して疑問を投げかけ、「何が正しいのか?どうすべきか?」と執拗に議論をつづけた。常識にも権力にもとらわれず、ものごとの本質のみを追求していった。
一七世紀に出現したフランス人の哲学者デカルトも、同様である。彼は「あたりまえと思っていることこそ、疑ってみるべきだ」という革命的な見方を、『方法序説』で示した。私には、ゴーンの姿に、ソクラテスとデカルトが二重写しになって見える。
少しゴーンの生い立ちをふり返ってみたい。CFTを発案したゴーンの源流が見えるからだ。ブラジルで生まれレバノンで育ったゴーンは、フランス最高の教育機関エコール・ポリテクニークで高等教育を受けた。これは国立理工科学校と訳されるが、フランス圏の超エリートを養成するグランゼコール(高等専門大学)の一つである。全国からやってきた一万五〇〇〇人もの優秀な入学希望者の中から、たった四〇〇人だけを入学させる。ここで学ぶ学生は「天才」と呼ばれることが多い。
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エコール・ポリテクニークは、理工系の天才教育だけをしているのではない。広い範囲の学問について徹底的な教育を行っている点は、わが国のトップクラスの大学も到底およばない。エコール・ポリテクニークの卒業生は、深い専門だけでなく、幅広い教養と哲学を身につけている。その真のエリートが、日産に乗り込んできたのである。
語学力と対話力は別のモノである
ゴーンの登場以来、日産の役員会は英語で行われることになった。日産では原則的に、一人でも外国人がいれば、会議の公用語は英語である。嘉悦によると、ゴーンと直接話すと、本質を問いただす質問が矢のように飛んでくるらしい。一秒も気を抜く暇がない。また、「CFTの初期、提案をすべて英語でプレゼンするのは大変だった」と嘉悦は回想する。メンバーは、英語の原稿をつくって棒読みしたが、すぐに通用しなくなった。会議では、顔を見ながら口頭でやり取りしなければならない。ところが、必要最低限のスキルと度胸とがあれば、拙い英語でも通用することがわかってきたという。ゴーンが求めたのは明晰さと簡潔さである。結局、コミュニケーションとは言葉の問題ではなく、マインド(思い)である、という共通の認識が生まれた。
英語が公用語となって、良い点もあった。英語で話した結果、考え方をコンパクトにまとめる習慣が、身についたのである。日本語から英語にする過程で、本当に言うべきことだけが厳選されるからだ。日本語の会議でよくあるように、つい余計な話をしてしまうことがなくなった。会議がより実質的になったのである。これは思わぬ収穫だった。
英語だけでは難しい会議の場合には、必要とあらば同時通訳が用意された。要は、英語の品評会をやるのではなく、本質的な議論に集中することが次第に定着した。英語は伝達のための単なるツールにすぎない。英語は不得意だが、的確な分析や提案ができる人間が、役員に就くようにもなった。
今後、日産以外にも、外資系企業などで英語による会議が増えると予想される。英語が苦手という日本人が多いが、私は何の心配もないと感じた。
「対話力」についての取材にあたり、私はもう一つ興味深いエピソードを知ることになった。日産車のデザインを統括する中村史郎常務(五二歳)の存在である。ゴーン改革の柱の中には、デザインの追求とブランド力の回復がある。優れたデザインは、車を販売する上での最重要課題だからだ。
ゴーンはいすゞ自動車から中村を引き抜き、デザイン本部長に据えた。日産が同業他社からデザイナーをヘッドハントしたのは、異例のことである。中村は、日産車のすべてのデザインを統御することとなった。
ここで私が興味を持ったのは、一匹狼で芸術家肌にちがいない凄腕のデザイナーと、現場の人間とがどうやって対話しているのか、であった。周辺の人物を取材して見ると、驚く答えが返ってきた。
中村は、ひとことで言うと「翻訳機能を持っているデザイナー」だった。彼は、デザイナーとして開発部門と密な会話を行うだけでなく、ゴーンとの対話、およびデザイン担当役員であるペラタ副社長と対話を、精力的に行ったのである。まさに、対話力のある高度な専門家を、ゴーンは経営の中枢に登用したのである。
ゴーンが評価する人材とは、「さまざまな階層の人間と、マネジメントに関する対話ができる一流の技術者」である。日産の取材を終えて、企業が必要とする人間のイメージが一変したことを、私は知った。高い専門性と対話力の二つを兼ね備えた人間が、要求されているのだ。これに応じて、大学教育も全面的に変える必要がある、と私は痛感した。
最近、大学を職業学校にしたいとする意見が産業界にはある。卒業生が即戦力にならないから、手に職をつけるような教育をしてほしいという。それは近視眼的だと私は思う。大学には、ゴーンや中村のような将来リーダーとなる人材を育てる使命がある。そのためには、専門能力に劣らず対話力を身につけさせることを、教育の目標に掲げなければならない。
ゴーンはいずれ日産を去り、ルノー本社でさらにグローバルな展開を行う予定である。カリスマ性のあるゴーンが去った後、日産の将来を危ぶむ声が少なからずある。しかし、それは杞憂であると私は思う。
ゴーンは、会社の再建を引き受けたときから、いつも自分が去る時のことをイメージしてきた。会社が危機を脱して、彼が抜けた後にも、成長しつづける会社にすることを、第一に考えてきた。日産は、CFTの成功を通じて、まさにそのような会社になったのである。
ゴーンは、対話を通じて社員の意識改革に成功し、危機感と緊張感を持ち続ける精神を植えつけた。個人が自分の言葉で語る対話のDNAを、着実に日産に残したのである。ゴーンが去ったあとの日産の未来は明るい、という印象を私は強く持った。(文中敬称略)
著者略歴 ◎ 鎌田浩毅 かまた・ひろき
1955年東京都生まれ。東京大学理学部卒業。
1997年より京都大学大学院 人間・環境学研究科教授。
科学と社会の情報交換に関心をもつ。
著書に『火山はすごい』(PHP 新書)など。
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