ドイツとドイツ語の部屋
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信号って基本的に「青→黄色→赤→青」と変わりますね。と,当然のようなことを書きましたが,ドイツでは「青→黄色→赤→黄色→青」と変わります(少なくとも僕が住んでいたときはそうでした)。つまり赤と青の間に必ず黄色が入るわけです。だからどうしたの?といわれそうですが・・・最近これを懐かしんでいます。
僕は,田舎に住んでいることもありが仕事にも生活にも車が必需品となっています。数年前からは燃費で選んだ自動的にアイドリングストップするオートマチック車に乗っています。その前は相続でもらった大きめの車に乗っていましたが,とても省エネとは言えず,罪悪感を感じていました。アイドリングストップって実際乗ってみると随分省エネです(燃費を表示するメーターが着いているので実感で� ��ます)。もちろん,燃費はともかく無駄に乗らないのが一番で,市内は出来るだけ自転車を使っています。
最近たまにマニュアルの軽自動車に乗るようになりました。ところが久しくマニュアル車に乗っていないので,クラッチ及びギヤ操作がなかなか旨く出来ません。赤信号で止まった時に,すぐ後ろに車がいると上手く発車できるかな?と緊張してしまいます。それで,もし信号が赤から青に変わる前に黄色があれば,そこで(心の)準備が出来るのでいいな〜,と思っているわけです。
で,実はこれからが本題です。以前はマニュアル車に乗っていたので,ある程度慣れればマニュアル車でも問題はないと思います。しかし,停車すると自動的にアイドリングストップする車に普段乗っていると,信号で止まったとき にエンジンが動いているのが妙に気になります。実際アイドリングストップにより燃費が良くなるのを実感しているので,手動でアイドリングストップを試みました。ところが,これが結構神経を使います。信号が青になってからエンジンをかけて,ギヤをローに入れて・・・とやっていると,まだマニュアル車になれていないこともあり時間がかかってしまいます。相手方の信号を見て,それが青から黄色・赤と確認できるときは,相手方他の信号が黄色になったあたりでエンジンをかけてスタートの準備をすることも出来ますが,どこの信号でもこれが可能というわけではありません。で,自分の前の信号が赤から青に変わる前に黄色になれば,そこで切ったエンジンを再びかければ,ちょうど良いな〜,とドイツの信号を懐かしんで� ��るわけです。
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信号待ちでアイドリングストップをする人はまだまだ少ないようですが,信号が赤から青に変わるときに黄色があれば,少しはアイドリングストップがしやすいのではないにでしょうか?オートマチック車でもやはり,前の信号が青に変わったのを確認してからエンジンをスタートするのではワンテンポ遅れてしまいます。(オートマチック車だとギアがPに入っていないとエンジンがかからなかったりして,かえって信号でエンジンを切りにくかったりもします。)「僕は環境に良いことをしているのだから,後ろの車も少しは待っているのが当然。それがいやなら君も赤信号でエンジンを切ったら」と,平然としていられる方はともかく,僕みたいに 後ろの車を気にする人間は,やはりもたもたとスタートするのが気が引けてしまいます。そんな人のためにも,赤信号と青信号の間に黄色を入れてほしいなと最近つくづく思ってるわけです。
そうは言っても,近い将来信号の代わり方が変わるとは思えませんね。それで,マニュアル車になれたら,心で後ろの人に心でゴメンしながら,赤信号でのアイドリングストップをするつもりです。皆さまも,赤信号で,前の車が出発の時に少しもたもたしていたら,「アイドリングストップしてるんだな」と大目に見て下さい!そして,出来たら皆さまも赤信号でのアイドリングストップを是非やってみて下さい。昨今の原油高は当分続く見込みだそうです。アイドリングストップは,省エネだけでなく,家計(事業)の助けにもなります ので。
20代でドイツへ初めて行ったときには色々カルチャーショックがありましたが、その後帰国したときもまたびっくりすることが多々ありました。時間がたつと忘れてしまいますが、最近一つ思い出しました。それはプールの休憩時間です。現在僕が住んでいる町のプールでは1時間に10分ずつの休憩があり、全員がプールから上がらなくてはなりません。ここに引っ越す前の町でも同じだったので、きっと日本ではこれが普通なのでしょう。でもドイツでは、こんなことはなかったので、帰国して初めてプールへ行ったときはびっくりして、少し怒ってしまいました。いつ休もうがそんなの人のかってだろうと。
ドイツで学生をやっていたとき、一時期お風呂のない部屋に住んでいました。それで、シャワーを浴びるついでもあり� ��立のプールへ定期的に(確か週に2回から3回ぐらい)泳ぎに行っていました。25メートルプールを10往復(500メートルですね)して、あとはその日の気分で少し泳ぎ、シャワーを浴びて帰るという、今考えればとても健康的な生活でした。泳いでいるのはせいぜい30分です。
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最近泳ぎに行ったときも、あまり時間がなかったのでとりあえず10往復とあと少し泳いで急いで帰るつもりでした。ところが、あともう少しというところで10分間の休憩となり、あと数分泳ぐために10分待たなくてはならない状況となりました。どう考えてもこれは理不尽でしょう。2時間もプールにいるなら、その間に10分や20分の休憩時間があっても気にならないかもしれませんが、せいぜい30分間泳ぐのに途中で10分間の強制的な休憩があってはたまりません。もちろん、休憩時間は決まっているのだからそれを避けて30分泳ぎに来いと言われるかもしれませんが、うまく時間がとれないこともあります。第一、こんな10分間の休憩なんて 本来必要なの?と考えるのですがいかがでしょう?日本人って、泳ぎの際の休憩時間まで強制されなければならないほど幼いのでしょうか?
ところでプールの話が出たので休憩時間以外の点についても少し。僕がドイツで学生をやっていたハイデルベルクという町には、市立のプール施設が複数ありました。いくつかはもう覚えていませんが、思い出せるのは4つで、全てタイプの違うプールでした。一番よく行ったのは、町の中心にぎやかなショッピング街の中にあった屋内プールです。上にも書きましたが、ここが僕のお風呂(シャワー)代わりでした。あと夏は、動物園の近くにあった野外プール。春ぐらいから外で泳げる野外の温水プールも比較的近くにあったので、夏期には利用しました。更に少し離れていましたが、 丘の上にあった野外プールと屋内プールを備えた施設へもたまに行きました。これらの全ての施設を一年間使用できる年間パスが確か学生90マルク(正確な為替レートという意味ではなく、感覚として約9,000円)で、野外温水プール以外の全てのプール施設を利用できる年間パスが学生用で60マルクでした。きっと野外の温水プールは維持費も高かったのでしょうね。日本で言うところの銭湯はなかったので、僕は年間パスを買ってプールがよいです。本当に貧乏学生だったので、とても助かりました。今僕の住んでいる町(人口が約8万人なので人口規模としてはハイデルベルクの3分の1ぐらいですね)には2、3年前に野外と屋内プールを持つ施設ができましたが、利用料は一回3時間までで400円です。どちらがよいか(つまり自治体がどのよ� ��にお金を使うか)は、考え方次第だと思いますが、プールをよく利用する人間にとっては、ドイツは非常に住みやすいと言えそうです。
屋外プールには芝生があってのんびりできるので、天気の良い日にはたくさんの人がひなたぼっこをしてのんびりと過ごしています。僕も夏には泳ぐだけでなく、プールサイドの芝生に寝そべって読書をしたりして時間を過ごしました。あと川原の芝生に寝ころんでひなたぼっこというのも良くしましたが、今思えば、お金はなかったけどある意味とても豊かな生活をしてました。
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日本やドイツのニュース等を聞いていると、日独の違いを感じることがたまにあります。隣国に侵攻して敗けたということは同じなのに、その後の隣国との関係は、どうしてこんなに違うのだろうとは、最近の日韓・日中関係を見ていると感じますね。それともう一つ最近日独の違いを感じたのは連邦議会での調査委員会のテレビ生中継のことです。特にこのテーマをニュースで追っているわけではなく、時間のあるときに聞いている程度なので詳しいことは分かりませんが、以下その感想です。
先ず、背景ですが、2000年ドイツ外務省は当時のフォルマー外務政務次官の名前をとったいわゆる「フォルマー通達」を出しました。これには国外の公館がビザの発券に当たり判断が困難なときは入国を許可するというような� ��容が含まれるそうです。野党はこの通達により大量の外国人犯罪者がドイツに入国して犯罪等を犯したと、政府特にフィシャー外務大臣等を非難しています。なお、この両名はどちらも同盟90/緑の党の所属です。それでこの問題が連邦議会の調査委員会で審議されることとなり、フォルマー氏やフィッシャー氏が証人として呼ばれることとなりました。4月の下旬から証人喚問が始まっています。
僕がここで問題にしたいのは、この事件の内容的な点ではありません。ですので、政府・野党どちらの言い分が正しいか等の判断はここではしません(というより情報がないので判断できません)。注目したいのは、この調査委員会で証人喚問の様子がテレビで生中継されることです。ドイツ連邦議会の調査委員会がテレビで生中継され るのはこれが初めてだそうです。更に、テレビ生中継は与党側の提案だそうです。生中継なら議論の内容がそのまま中継されるので市民が自ら判断することができるし、政党やマスコミが勝手なことを書けなくなるから、ということだそうです。
日本ではこのような場合、与党と野党の間で、誰々を呼べ・呼ぶ必要がないとか、公開にしろ・非公開が妥当だ、なんていう駆け引きがあるような気がするのですが、証人として呼ばれる側がテレビの生中継を提案することは無いように思います。もちろん、このような生中継が決定されるにはいろいろな要因があったと思いますが(たとえば、議論が得意でテレビ受けのするフィッシャー大臣だから同意したのだろうとか)、基本的には、公開の場で議論すること、更に中継にして市民 がそれを自らの目で見ることができることは良いことだと思います。もちろん、十時間以上に及んだ審議を誰が見るんだ?とか、容姿や話し方とか出はなく、内容から判断する市民がどれぐらいか?結局テレビショーになるのではないの等々の疑問は残るわけですが。
日本でももっと公開で議論してほしい、というと月並みな結論になってしまいますね。国会の調査委員会で証人や参考人として呼ばれることはもうそれだけで悪者のようなこととなり、呼ばれる側はできるだけ呼ばれないような工作をする(もちろんドイツでも状況は似ていると思いますが)ようなことはせず、呼ぶ側も呼ばれる側も正々堂々と自己の主張をするべきでしょう。調査委員会とは話がずれますが、政策決定に当たっても結局密室で決められることが多いので、もっともっと公開してかつ市民参加が必要なのだと思います。
僕も日本に帰ってきてから、議論することが少なくなりました。相手の意見に異をとなえることは、相手の人格を攻撃していることではありません 。相手を批判することは相手を非難していることとは違います。でも面倒になると、適当に相づちを打っていることも多いのも事実です。もっとも、譲れないところは譲りませんので、一部の方々からは嫌われているかもしれません。
最近「挑戦」という言葉が名詞として使われているのを以前より多く目にするようになりました。先日読んでいたA4一枚の文章にも3度も使われていました。それでもまだ、この言葉には違和感を感じます。
ドイツ語では「Herausforderung」という言葉は、ふつうに使われます。仕事でドイツ語を使っていた当時、この言葉が出てくると日本語に訳しにくく困ったものでした。辞書を見れば「挑戦」とでていますが、日本語では「挑戦」とは言わないと考えていました。それでも中には、たまに「挑戦」と訳す方などもいて、個人的にはこれは誤訳ではないかなと考えています。
もちろん、そんなに気にせず辞書の通り「挑戦」としてしまえば楽ですが、楽だからといって間違った日本語を使ってはいけないと考え� ��何とか違う日本語を見つけていました。一番多く使ったのが確か「課題」という表現でしたでしょうか。たとえばHerausforderung des 21. Jahrhundertsなんて表現がたまに出てきますが、これを「21世紀の挑戦」と訳してはなんだか分からないと思います。(少なくとも数年前までは通訳や翻訳者以外は誰もこんな日本語を使わなかったと思います。)そこで、たとえば「21世紀の課題」とかにしたわけです。
たとえばHerausforderung des 21. Jahrhundertsをインターネットで検索して最初にヒットした、「Nachhaltige Agrarwirtschaft ist zentrale Herausforderung des 21. Jahrhunderts」というような文章は、「持続可能な農業は21世紀の中心的な挑戦だ」では意味が通らないでしょう。これは、21世紀が私たちを持続可能な農業にherausfordernするという意味だと思いますが、日本語でこの文脈では挑戦とは言わないと思います。
一番最近接した日本語の文章での「挑戦」は、「市民の政策決定への参加と排出削減の実行に取り組もうとする私たちの挑戦」というものですが、これはそれなりに日本語として使うかと思います。中には個人的には首をかしげたくなるような使い方もあるのですが、いずれにしても日本語の文章の中で「挑戦」が名詞として使われるのは、「...が挑戦する」という意味を名詞句にして「...がした挑戦」というような意味で使われることが多いともいます。そして、これはやはり「21世紀の挑戦」というような、日本語とはかなり違うものと思います。
もちろん言葉は常に変わってゆくものであり、多数の人々が使う日本語が正しい日本語だともいえるかもしれません。「そ� ��は、日本語じゃないだろう」なんて意固地に考えるべきではないでしょう。名詞として使われる「挑戦」という言葉についても、徐々に市民権を得てゆき、その内「21世紀の挑戦」なんていう日本語も普通に使われるようになるのかもしれません。でも、それはまだ先のことでしょう。ということで、何も気にせずHerausforderungを「挑戦」と訳すことができるまでには(そうしたらなんて楽でしょうね)、まだ間がありそうです。
もっとも、全ては僕の日本語感覚がおかしいせいかもしれませんが。
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